

天文11年(1547)、6歳の竹千代(家康)は、人質として駿河今川方に向かう途中、義理の祖父に略奪され、敵方の織田方に永楽銭百貫文で売り飛ばされた。竹千代は当初、熱田の豪商加藤家に幽閉されていたが、後に万松寺に移された。当時の那古野には14歳の信長が、中村には11歳の秀吉がいた。人一倍好奇心が強い信長や秀吉が敵方「三河の小倅(こせがれ)」の顔を見ないはずがない。当時、朝夕に馬を駆け、庄内川で泳ぎ、河原で遊んでいた信長は、孤独な竹千代を誘い一緒に遊んだかもしれない。桶狭間の戦いの後、信長と家康は「清須同盟」を結ぶ。この時の二人の約束は終生守られた。

地下鉄「中村公園」駅で下車し、日本一の高さの大鳥居をくぐると、そこは豊臣秀吉を祀る豊国神社の参道だ。緑豊かな中村公園内には人々の参拝が絶えない豊国神社の他にも、秀吉の生誕碑や秀吉ゆかりの常泉寺がある。近くの妙行寺は、加藤清正が名古屋城築城の際に、その余材を使って再建した寺。公園内の「名古屋秀吉清正記念館」は、秀吉と清正に関する資料を収集し展示する歴史資料館。定期的に、趣向を凝らした特別展を開催している。
1609年、ほぼ天下を手中に収めた徳川家康は、「名古屋遷府令」を発布。翌1610年から清須越(清須から名古屋へ移動)が行われ、名古屋城の築城がはじまる。信長の那古野から家康の名古屋に変わった瞬間である。家康は幼少時代に人質として過ごしており、その間に 若き信長と出会った可能性が高い。家康にとっても名古屋は、自分の運命を変えた想い出の土地だったに違いない。
名古屋は有名武将の宝庫である。秀吉と清正は中村公園(中村区)、前田利家と慶次、池田恒興は荒子(中川区)、柴田勝家は上社(名東区)、丹羽長秀、佐々成政、佐久間盛政 も那古野武士だ。
利家、慶次の発祥地と言われる荒子界隈では、荒子観音、荒子城址など数多くの史跡が残されており、利家が発展させた金沢市尾張町と荒子町は、今でも文化交流を続けている。













